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34 人的資本経営の誤解にチャンスを見出す

(2023/02/23)

2020年9月に人材版伊藤レポートが公表されて以来、人的資本経営という文言はそれなり認知が進み人的資本経営ふうの取り組み事例も増えてきているようですが、大部分の会社は理解しきれないまま混乱に乗じたコンサルや人材系ビジネスのカモにされているように思えなくもありません。

この記事コーナーでも人材戦略を題材にしているので、人的資本経営なるものが何でどう人事戦略と整合しながら取り組めばよいか、見過ごせない誤解が蔓延しているかもしれないので改めて整理してみたいと思います。

もっとも、これまでもそうですがそこそこそれなりの経営学の知識と戦略思考、実践経験があることが、この記事を理解するための前提になって、理解や実行力や実行環境が不十分なままで取り組むと逆効果になります。

人的資本経営の目的

働き方改革、リスキリング、DE&I、健康経営、エンゲージメント、などなど、従来あまり顧みられなかった概念が矢継ぎ早に飛んできて、賃上げや人的資本の情報開示まで求められるようになり、採用は困難化しているし何をどうすればよいか混乱している経営者は多いでしょう。

こういう時に一番確かな方法はもともとの混乱の出どころにもどり、変な加工や解釈がされていない1次情報を分析することですが、この場合だとおおもとの人材版伊藤レポートに2022/08にさらに肉付けされ策定された内閣官房新しい資本主義実現本部事務局公表の人的資本可視化指針が最適です。

指針のエグゼクティブサマリー「1.1.人的資本の可視化へ高まる期待」に、「競争優位の源泉や持続的な企業価値向上の推進力は「無形資産」に」と書かれていて、これが人的資本経営を推し進めるべき理由になります。

つまり国が人的資本経営を強力に推奨する理由は、

日本企業が競争優位や持続性を獲得するためには人的資本への投資が最も大事
だと考えているから、つまり
政府としては世界を相手にバリバリ稼げるような強い良い会社を日本に増やしたい、そのためには、従業員のポテンシャルを引き上げそれを最大限上手に利用するノウハウを持つ会社を増やすことが不可欠

だからであって、強い良い会社になること自体は民間企業の目標と合致するわけで(もっとも国のホントの意図は国富を増やし税収を増やすこと)、その手段としての正しい会社経営概念が人的資本経営だという訳です。

ではなぜ人的資本経営の取り組み情報を開示しなければならないかというと、投資家はそれを投資の判断材料にするからであって、積極的に投資されればビジネスを拡大するための資本チャンスを手に入れられるわけです。

株価

もっとも、投資家は投資リターンや株価の安定成長に対して投資するわけだから、いくらヨサゲに見える取り組みを公表しても結果が伴わないと投資はやがて引き上げられて経営危機になりかねないし、ビジネス成長の確信が持てるつじつまが合った取り組みの表明でなければやはり投資を集めることはできません

目的はあくまでも良い社会課題解決できる強い会社になることであって、コンサルの口車に乗ってリスキリングやエンゲージメント強化を目的だと勘違いしてしまうと、その時点で良くて周回遅れ、ヘタをすると競争から脱落します。

さりとて何もしないと、人的資本経営を実現できた競合がいたら圧倒的な差をつけられて、業績低迷に転落するのを避けられません。

バズワード化しつつある人的資本経営ですが、うまくやってる会社は密かにうまくやっていそうにも思え、3~4年で勝ち負けが決まりそうな気もします。

人的資本可視化指針を読み解く

人的資本経営の目的はまさに社会の役に立つ儲かる良い会社になることですが、どうすればよいのか、人的資本可視化指針が提案するシナリオをもう少し見てみます。

エグゼクティブサマリ「1.2.可視化の前提としての経営戦略・人材戦略」は、「人的資本の可視化の前提は、人的資本への投資に係る、経営者自らの明確な認識やビジョンが存在すること。ビジネスモデルや経営戦略の明確化、経営戦略に合致する人材像の特定、そうした人材を獲得・育成する方策の実施、指標・目標の設定などが必要」といいます。

以降は可視化する時の注意事項とか表現の仕方のヒントなどが書かれているだけなので、この一文が指針の中核であることがわかります。

なお「1.1.人的資本の可視化へ高まる期待」に戻ると、「経営者、投資家、そして従業員をはじめとするステークホルダー間の相互理解を深めるため、「人的資本の可視化」が不可欠」といい、人的資本経営の実態とその将来シナリオの情報共有浸透が不可欠だといっています。

これまで日本企業は一部一流企業を除き、経営方針やビジョンやビジネスモデルや経営戦略といったものを必ずしもうまく浸透実践できているとは思えなくて、しかしそれができないと関係者一同のベクトルがそろわないから、世界を相手に稼げる会社がなかなか生まれないのも至極当然なのかもしれません。

人的資本可視化指針が求めるものは、会社はどんなあるべき姿を目指しどう全社戦略を立ててそれを実現するか、それと人事をどう整合するか、という経営シナリオと、投資家含むステークホルダー全体で共有し一丸となるためのコンセプト共有の手段だといえます。

口で言うのは簡単ですが、いい会社になるための全体整合が取れた戦略を立てて価値協創ガイダンスのようなものに綺麗に落とし込むのは腕利きの経営コンサルでも生易しい事ではないし、それを浸透すること、実現することはさらに格別といえるほど難度が高くて、やはり世界一流になりうるポテンシャルをもともと持っている会社でないと無理じゃないかな、という気になってしまいそうです。

価値協創ガイダンス

なお人的資本可視化指針の本文「1.1.人的資本の可視化へ高まる期待」の第2パラグラフは、「人的資本への投資が生み出すイノベーションによって社会の課題を解決し、それに見合った利益を実現することは、「新しい資本主義」が目指す成長と分配の好循環を実現する鍵である」と指摘していて、

経営戦略・ビジョン ⇒ 人的資本投資 ⇒ 人材強化 ⇒ イノベーションの成功 ⇒ 社会課題のより良い解決 ⇒ 競争優位・持続性獲得&投資獲得 ⇒ 会社の繁盛

というのが人的資本経営が目論む成功シナリオに思えて、人的資本経営することは決して目的ではなく、あくまでより良く社会課題解決するためのイノベーションを起こす手段である、ましてや働き方改革やエンゲージメント強化は戦略の一端に過ぎない、ということを理解しておく必要があります。

シンプルに言えば、より多くの良い価値を提供できる会社になることが業績を上げることにつながり、そのためにはなんらかの革新が必要、そのために人材強化が引き起こすイノベーションが必要条件だと主張しているわけです。

人的資本経営の違和感

しかし人的資本可視化指針を反すう吟味していると、なんとなく違和感が生じてきます。

イノベーションが従来なかった新規な価値創造である以上、イノベーションが発明される以前ではその有益性はむろん、ビジネスモデルや事業戦略や社会実装する方法論は編み出されていなくて、その普及にどんな人材が必要か想像だにできないから、
イノベーションの成功イノベーションの社会実装戦略実行人材育成戦略遂行企業価値向上
のほうが違和感のない実行順序に思えます。

「・・・ビジネスモデルや経営戦略の明確化、経営戦略に合致する人材像の特定、そうした人材を獲得・育成する方策の実施・・・」はどんなイノベーションが起きるか見当がつかないなかでやっているので、イノベーションを事業化するための人材育成や戦略を意図しているとは解釈しづらいわけです。

現在の技術の延長でイノベーションされるのなら、いま世の中にある知見を利用することである程度人材不足をカバーできるでしょうが、それだと卓越した競争優位や持続性の獲得は難しいように思えます。

また、すでに社内で何らかの革新アイデアができあがっているのなら、それを事業化するのに従来と異なるスキルの人材像を考えてそれを確保する必要がありますが、世の中に既にある知見はイノベーションを見越して作られているわけではなく、一般的なリスキリングで得られる技能だけでは発明の社会実装を軌道に乗せる十分な知見にはなりえないでしょう。

進歩性の高いイノベーションを事業化するための中核知見は、イノベーションの姿を見てから自社内で作り上げるしかないように思います。

人的資本投資をイノベーションを起こすための人材強化だと解釈しようにも、そもそもイノベーションを起こすための人材像もスキルもまだ解明されておらず、効果が科学的に確かめられた育成方法なんていまだ世の中に存在しないから、やはり違和感がぬぐえないのです。

大学との共同研究や特許実施権の購入など発明を外部調達する戦略であって、事業化に必要な関連スキルをすべて外部調達できるなら人的資本経営のコンセプトがスムーズに適合しそうですが、かなり特殊なケースであって人的資本経営が想定し期待する成長パターンとは思えません。

人材育成投資が確実にイノベーションをひき起こすような画期的で巧妙な戦略ができていて、それをステークホルダーが納得し確証を持てる着実な運用が行われない限り、人的資本経営に似て非なる取り組みは、功を奏さないかもしれません。

むろん世間一般的にイメージされているリスキリングを施すことで、パフォーマンスを発揮しきっていない人的資源を市場ニーズに合致する人材に再加工して最大限活用する、いわば人材資源のリサイクルは当面の付加価値生産に有益だし、今現にマーケットで重視される知見・スキルを知らずにイノベーションできるものでもないだろうから、リスキリングする価値はあるでしょう。

勉強

従来の延長のプロセスイノベーションならば既存の知見でもそれなり対処できるかもしれませんが、概念の異なるプロセスはやはり同様な問題が起きます。

競合他社と横並びでトップランナーの技術をまなぶリスキリングをやっても、先頭集団から脱落する危険は減るとしても競争優位には立てず、うだつの上がらないフォロワー地位から抜け出ることは容易でないのです。

そのうえリサイクルされた人材は、イノベーションが起きた時点でふたたび使い道のない不活性資源になりかねないわけだから、リサイクルのために投入する経営資源よりリサイクルで得られる価値が十分大きくなるように育成戦略と経営戦略がたてられないとやはり問題になります。

人的資本経営にケチをつけるつもりはないしその重要性はよく理解できているつもりで、むしろこの不自然さを正しく解釈し対処解決することが、本当の人的資本経営を実現するための突破口になりそうに思うのです。

どうすればいいか

この記事を書いている途中にたまたま見かけた某コンサル会社のホームページ記事は、自社が人的資本経営をいかにうまく実現支援できるか饒舌に主張していて失笑を禁じえなかったのですが、まぁそういう会社に協力してもらうのはお勧めできないとして、あくまで人的資本経営の目的は進歩的な社会課題解決と競争優位や企業価値向上の実現であって、くれぐれも手段を目的化しないように気を付けながら戦略を考え取り組んでいくことが大事でしょう。

会社の経営環境や事業内容、現有のイノベーション能力のレベルによってむろん優先すべき人的経営課題は異なりますが、人的資本投資の目的をイノベーションによる競争優位・持続性獲得だとして、たとえば人材戦略上で短期・中期・長期の目標のバランスを考えるのは重要でしょう。

進歩的イノベーションを量産できればいいのですがそう簡単でないのは言うまでもない事、そのためには並々ならぬ仕込みと工夫が必要で、まずはこれを長期目標として短期に取り組むことから地道に積み上げていくしかないのでしょう。

跳び箱

※厳密に正しくは、〇〇年後の自社が社会でどんな役割を担って存在意義を認められているか将来像を思い描き、そのためにはどんなふうにイノベーションを担うべきか考えるべきです。

短期目標としてたとえば、手持ち人材資源の活用度を高めながら現在普及しているソリューションと社会ニーズのギャップを掴む、という「稼ぎながら学ぶ」アプローチがあるでしょう。

稼ぎは業績を高める以上に中長期の戦略実行の原資になるわけですが、この段階では近いうちに主流になる技術だけでなく理論的基礎をしっかり学ぶことが重要です。

認知科学の知見では、新しい知識は既存知識との関連性を意識して学ぶことが効果的だといわれていて、それは知識や概念が長期記憶の中で相互に意味的につながっている(意味ネットワーク)からなのだそうです。

理論的基礎を確実に修得していれば基本と応用知識の関連付けは比較的容易なので、応用知識だけを機械的に暗記するより学習効率が高まるでしょう。

中期目標としてたとえば、短期活動で広く浅くビジネスしつつ掴んだニーズのなかから、自社の強みを生かせるセグメント向けに技術改良つまり小さなイノベーションを仕掛け、社会実装につなげる取り組みが考えられます。

マーケット全体ではフォロワーであっても、フォロワーなりに工夫し既存技術に新たな価値づけをすれば、別の分野か少しニッチなセグメントでリーダーになれる可能性はあって、世界を相手に稼げるかどうかはともかく、自社なりで独自の社会課題解決・企業価値の向上は果たせることになります。

ここで重要なのは、現行のビジネスや普及レベルの技術を土台にしてイノベーションのトレーニングを重ねることにあって、イノベーションに必要な組織能力や学習能力を高め「稼ぎながら実践能力を高める」ことを進めます。

長期的には進歩的イノベーションを量産しながら、イノベーション実践能力や組織学習能力の強化をさらに進める取り組みを継続します。

これらの取り組みを組織の状況に併せて並行して進めていくというのも戦略の選択肢の一つで、戦略をうまく実行していくには、おそらく従業員のモチベーションやコミットメントのやはり戦略的な涵養が不可欠です。

いうまでもなく、イノベーションを生める会社になるためには、人材育成と組織開発など連携しながら進めていく必要があり、それらの施策や戦略は経営学や心理学、組織開発のプロに相談して第三者的視点で内容を検証してもらうことが勧められます。

正しい人材戦略のおはなし・いったん完結

産業組織心理学など、応用心理学で人材育成の役に立ちそうな主だった知見はおおまかには網羅できた気がするので、「正しい人材戦略のおはなし」はこれでいったん終話とします。

触れずに終わった重要なエピソードを思い出したら、いつか「正しい人材戦略のおはなし/シーズン2」を再開するかもしれませんが、この後は話しの流れから組織開発や技術経営などについて模索と整理をしていきたいと考えています。

前提知識がなければなかなか理解の難しい一連の話しでしたが、うまく吸収し活用して商売繁盛の足しにしていただけることを願っています。

おしまい。

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