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12 中堅ベテランの離職防止は甲斐武田に学ぶ

(2022/06/26)

人事課題の中でももっとも頭の痛い問題の双璧をなしていそうなのが、中堅ベテランの離職でしょう。

リテンション・マネジメントという呼び名で離職防止サービスも種々展開されはじめているようで、しかしやはり科学的根拠を明示しているように見えるサービスは見当たりません。

リアリティショックや組織社会化の不具合が早期離職の引き金になるのに対し、産業組織心理学は、心理的契約の不履行が起きると、すでに組織に適応定着している従業員に離職意思を引き起こすことがあるといいます。

産業組織心理学は100年くらいの研究蓄積がありますが、離職動機を喚起する原因は今のところ心理的契約の不履行と衛生要因への不満足しか見出されていないようです。

注)当然ながらパワハラなどによる離職はまったく別問題だから、ここでは議論しません。

心理的契約とは

心理的契約とは「企業において従業員が雇用されることとなる場合においての契約であるが、内容が暗黙の了解において結ばれるようなもの(Wikipedia)」であり、従業員の組織への期待が反映されて個人差や状況により同じ雇用契約条項や期待の内容でも意味付けが異なる場合があります。

終身雇用は心理的契約の典型例といえ、入社する際企業と個人が取り交わす雇用契約書はあくまでその時点で確定できる労働条件や職務内容など基本事項を約束しているに過ぎないので、終身雇用は重要な約束でありながら、法的に履行が担保された契約でなく成文化もされず、労使の信頼に基づいて実施されてきました。

心理的契約は暗黙の相互期待という側面があって、従業員も企業も相互に「ここまではしてくれるだろう」と思い込みをお互いに確認せず、しかしそれに見合う結果が得られないと裏切られたという思いが生じ、基本的な信頼関係にも影響を及ぼすことになります。

武田信玄は甲陽軍鑑で「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」と言い残していて、まさしく大事にすれば人は味方になるが裏切られたと感じたら家臣は離れていき敵になるのです。

武田信玄

待遇や業績評価が納得できない、本人に不利な配置・転属、などは不履行に抵触しそうですが、個人の価値観や気分によっても受け取り方が変わるので線引きが難しいところで、とはいえ考えうることすべてを契約文面化するのも現実的ではないし、ある意味地雷を踏むようなものかもしれません。

従来日本は終身雇用主体で中途採用の労働市場がほとんどなかったことが終身雇用のインセンティブを強め、企業の契約違反が多少許容されていたとも考えられるのですが、転職が徐々に一般化してくるにつれ企業の契約違反に対する従業員の反応が敏感になっていく可能性があるとも考えられています。

離職理由の御三家と心理的契約

離職が生じる理由は給料等・労働時間・人間関係が御三家といえそうで、令和2年雇用動向調査結果の概要の「転職入職者の状況~転職入職者が前職を辞めた理由」などを見てもなるほどその通りです。

厚労省が調査した結論だし、産業組織心理学でも衛生要因に不満足があると離職原因となるというんだからなんとなく鵜呑みにしてしまいそうになるのですが、考えてみると離職する少し前まで同じ条件でそれなり勤務に不満を感じるほどでなかったわけだから、急にちゃぶ台をひっくり返すのはなんらかの境遇変化で意にそぐわない就労条件変更を押し付けられた結果、心理的契約が侵害され給料・労働時間・人間関係など衛生要因が割にあわなくなったと感じ組織離脱意思が発生すると解釈するほうが、つじつまが合うように思えます。

辞表

経営組織論では、組織と個人の関係は基本的にギブ・アンド・テイクであり、組織側から提供するものを「誘因」、個人が提供するものを「貢献」と呼んで、貢献を提供するのに十分な誘因が提供されることで誘因と貢献の交換関係が成り立つとします。

給料は衛生要因なのでなるほど低いと不満が強化されるのですが、暇で楽な仕事は常識的に薄給でも当たり前だから、あくまでも仕事の内容、もっといえば個人が会社に提供するあらゆる役務や拘束時間などと、個人がその見返りに組織から与えられる報酬や職務満足感などと、それを減殺するストレスや不満などがバランスしているかどうかによって、トータルの満足不満足が判断されるのではないかと思います。

衛生要因が確かに悪化したのならそれはそれで問題ですが、どうすれば心理的契約に抵触せずにいられるかというと、従業員一人一人価値観が異なるので一概に対応することができない難しさがあります。

心理的契約不履行の影響緩和

しかし産業組織心理学は、組織が公正、不履行理由が正当、組織コミットメントが強い、信頼があると不履行の影響が少ない、という知見を示しています。

なんらかの不履行は多かれ少なかれ期待を裏切る行為であるものの、たとえば組織が公平であると認知されていてその不履行の理由が正当なら、さほど印象悪化にはならず離職衝動を目立って強化するわけではないということなのです。

組織に対して信頼や愛着、公平性といったポジティブな認識があれば、職務満足低下などを抑止することができ、逆に言えば普段の悪印象の積み重ねによっては些細な事でも離反が起きる可能性があるということでもあります。

心理的契約には、取り引き的契約として適切な賃金、訓練機会提供、公平性、自己裁量、仕事環境など経済的・条件的・短期的な要素があり、関係的契約として雇用保障、人間的な扱い、事前の相談、家庭への配慮など心理的・長期的な要素があるといわれ、当然ながらこれらには適切な配慮が求められます。

中堅従業員の離職が少なくない場合、キャリアアップのための転職ならまだしもそうでないとしたら、これら暗黙契約条項に運用上の問題がなかったかどうか、信頼され公正・正当で良い関係を維持できているか、胸に手を当てて振り返ってみる必要があって、また、自社で導入しているリテンション対策サービスは的外れでないか精査してみる必要もありそうです。

よほどでない限り心理的契約に抵触したことに気づくのは難しいでしょうから、正しく設計された科学的な根拠のある従業員満足度調査を定期健康診断のように行い、その都度の従業員の心の健康状態を推測し変化を検知して、手遅れにならないよう正しく対応する予防の仕組みを作ることも必要です。

むろん万が一離職が起きた時にそれをどうリカバーするか、適切な業務設計をするのが必要なのもいうまでもありません。

もう一歩掘り下げてみる

中堅ベテランの離職を産業組織心理学の観点から分析すると以上のような解釈になります。

公正・正当・信頼性を改善したり、コミットメントを高めるための戦術は次の記事で考えるとして、400年以上も前の甲斐武田の教えがなぜ活かされないのか、もう少し考えてみたいと思います。

ここから先はあくまでもニシカワの見解であって、科学的に検証された知見でないことはご了承ください。

そもそも転職=キャリアアップという価値観が一般的なアメリカあたりと違い、日本は現時点では一部の職種をのぞき転職にはむしろまだネガティブで、好き好んで転職する風潮は強くないだろうと思います。

先に述べたように組織と個人の関係がギブ・アンド・テイクの交換関係として認識されているとして、もし中堅ベテラン従業員の離職が少なくないとすれば、個人が離職するということは誘因(組織側が提供する本人にとって好ましいもの)<貢献(個人が提供する役務など)という本人にとって好ましくない状態にバランスが変化し、その状態が慢性的で将来解消する可能性が低いと判断された結果見限られたと考えるのが順当といえそうです。

傾いた天秤

ギブ・アンド・テイクであるべきビジネスパートナーに対し不当な処遇で公正といえず信頼感が乏しく一体感も抱きにくい組織、という状態が根底にあるのだとすれば、心理的契約の違反対策とかその緩和対応という次元の問題というよりは、そもそも従業員をおろそかにしていそうな経営姿勢に問題がありそうに思います。

90年近く前のホーソン実験は、良い人間関係の職場でちゃんと一人の人間として尊重されながら働くと明らかに生産性が上がることを教えてくれていますが、貢献に対し報酬が不当に低い、軽視されている、と考える従業員が少なくないとしたら従業員は報酬に見合う貢献しかしないだろうから、生産性が低下したり収益性が低迷しても無理からぬ話です。

会社と従業員の関係を大切に思い育てる経営マインドが根本的に重要なのかもしれん。

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