イノベーショントップ
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01 人的資本経営は商売繁盛を目指す経営

(2023/09/05)

2023年3月期決算から、上場企業などを対象に「人的資本の情報開示」が義務化されることになり、対象企業は義務を全うしなければならないし、対象でなくとも少なからず企業はその影響を受けることになります。

政令義務だということは一時的な措置とは考えにくく、将来にわたって付き合っていかなければならないことなのですが、そもそも情報開示は企業の成長可能性を周知することが目的です。

このシリーズでは、人的資本経営の意図がイノベーションによる企業の発展にあることを念頭に、改めてなぜイノベーションなのか、イノベーションが起きないのはなぜか、どうすれば革新を実現できるのか、経営学や応用心理学の知見などを参考にして考察していきたいと思います。

人的資本経営

そもそも「人的資本の情報開示」が義務づけられたのは、人的資本経営は世界の流れであってそれに取り組まない企業には投資も集まらず弱体化していく、投資先としてふさわしい会社であることを公表する仕組みを作って産業を発展させる、という狙いがあるのでしょう。

人的資本と金融

米国での調査によると、米国では1975年に17%であった企業価値に占める無形資産の割合は、2015年には84%、2020年には90%にまで増加しており、価値を生み出す能力や才能のような人的資本の価値が、特に高まっているのだそうです。

価値を生み出す能力や才能が豊富な会社なら安定成長し、投資すればリターンも大きいから投資先として選ばれやすいし、逆に言えば人的資本を充実する取り組みが不明瞭な会社には安心して投資できない、というのが昨今の投資家の心情だとすれば、人的資本経営の取り組み状況の開示の仕方にルールを決め、取り組み内容を評価しやすくすることで金融市場からの投資を促進する、という目論見はそれなり理解できます。

ウォール街

欧州では2014年から非財務情報開示指令で「社会・従業員」を含む情報開示の義務づけが始まり、米国では2020年11月から上場企業に対して人的資本の情報開示が義務づけられたそうで、日本も日本企業が国際金融市場から脱落しないよう、諸外国の動きに倣う必要が生じたわけです。

日本企業も価値を生み出す能力や才能を社内に増やし、多くの投資を得て盤石な経営にしないと国際的な競争に勝ち残れず、日本経済がどんどん衰弱してしまう、というのが政府の危機感なのでしょう。

開示する事はリスクも生む

どうも2023/05時点での法定開示項目は、人的資本(人材育成方針と社内環境整備方針)と多様性(女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金格差)、任意開示項目が人材育成、エンゲージメント、流動性、ダイバーシティ、健康・安全、労働慣行、コンプライアンス、といったところらしいのですが、正確な義務は調査していただくとして、とにかくこれらのスコアをあげさえすればよいという訳でもないのが厄介です。

実はこれら項目の中には、改善しても直接の業績改善効果が認められていない要素があります。

たとえばエンゲージメントは、厚労省資料「令和元年版労働経済の分析-人手不足の下での「働き方」をめぐる課題について-」のp196「ワーク・エンゲイジメントと仕事のパフォーマンス」で触れられているように、エンゲージメントを高めることで収益性が改善するとまで言いきれないし、働き方改革も労働生産性を高めるといえるほどの効果は認められていないようです。

人的資本拡充のための取り組みは強く賛同するところではありますが、このホームページの正しい人材戦略のおはなしを読み込んでいただければ、一筋縄では効果は出ないことがわかるでしょう。

開示スコアをあげても経営効果が出ない、あるいは先々効果が出そうな納得性(の持てるシナリオ)が見えない場合には、投資家の失望を買いかねずむしろ資金の引き揚げを招く懸念さえあります。

しかも巷にあふれる人材系のDoHowとかサービスは科学的根拠の乏しいなかばガセネタのほうが多いくらいで、無邪気に信じてそれらを導入してもやはりスコアが上がるどころか資金を捨てるようなもので、輪をかけて投資家の不評を買いかねないのです。

今までノーマークだった企業成長の大いなる道筋が示されたという点では人的資本経営の概念は画期的で、しかし一歩踏み外すと奈落に転落しかねない厳しい道のりでもあり、とはいえもはやそれを拒んで足踏みすることは許されないのです。

中小企業にとっての人的資本経営

必ずしも株式で資本調達するわけではない中小企業は、情報公開の流れと無関係かというと決してそうではありません。

中小企業の資金調達はむしろ金融機関からの融資に依存することが多いと思いますが、銀行は将来性や収益性の期待できる企業には好意的ですが、そうではない企業には銀行自身の経営安定のために露骨に冷淡に振舞うことはよく知られています。

ATM

こういうご時勢ですから、人的資本経営に無頓着では金融機関の判断形成に大いに不利になる事は容易に予想できます。

なおかつ人手不足がますます深刻化する昨今、それでなくても求人に苦戦を強いられているのに、人的資本経営に取り組んでいない会社≒従業員を粗末にしている会社、というイメージが定着したら、人材不足で首が締まって確実に先細っていくことは避けられません。

人的資本経営の意図はイノベーションを通じた会社存在意義の高揚・商売繁盛・成長にあって、どちらか言って経営資源の乏しい中小企業こそ、前向きに取り組む意義があるといえます。

人的資本経営の本質

「正しい人材戦略のおはなし」の「第34話 人的資本経営の誤解にチャンスを見出す」と重複しますが、大事なところなので、2022/08に内閣官房新しい資本主義実現本部事務局が取りまとめた人的資本可視化指針に整理されている人的資本経営の狙いを振り返ります。

指針のエグゼクティブサマリー「1.1.人的資本の可視化へ高まる期待」に、「競争優位の源泉や持続的な企業価値向上の推進力は「無形資産」に」と書かれていて、これが人的資本経営を推し進めるべき理由になります

エグゼクティブサマリ「1.2.可視化の前提としての経営戦略・人材戦略」は、「人的資本の可視化の前提は、人的資本への投資に係る、経営者自らの明確な認識やビジョンが存在すること。ビジネスモデルや経営戦略の明確化、経営戦略に合致する人材像の特定、そうした人材を獲得・育成する方策の実施、指標・目標の設定などが必要」といいます。

また人的資本可視化指針の本文「1.1.人的資本の可視化へ高まる期待」の第2パラグラフは、「人的資本への投資が生み出すイノベーションによって社会の課題を解決し、それに見合った利益を実現することは、「新しい資本主義」が目指す成長と分配の好循環を実現する鍵である」と指摘していて、

経営戦略・ビジョン ⇒ 人的資本投資 ⇒ 人材強化 ⇒ イノベーションの成功 ⇒ 社会課題のより良い解決 ⇒ 競争優位・持続性獲得&投資獲得 ⇒ 会社の繁盛・発展

というのが人的資本経営の旗を振る政府の目論む成功シナリオで、人的資本経営することは決して目的ではなく、あくまでイノベーションを起こす手段である、ましてや働き方改革やエンゲージメント強化は戦術の一端に過ぎない、ということを理解しておく必要があります。

シンプルに言えば、より多くの価値を提供し一段と社会課題を解決できる会社になることが業績を上げることにつながり、そのためにはなんらかの革新が必要、そのために人材強化によってもたらされるイノベーションが不可欠だと主張しているわけです。

ところが難しいのは 人的資本投資 ⇒ 人材強化 のところと 人材強化 ⇒ イノベーションの成功 のところで、人材に投資しても、そのやり方が当を得ていないと価値を生み出す能力や才能が養われるとは限らず、また能力や才能に恵まれたとしてもイノベーションが起こることは稀なことです。

イノベーションが従来なかった新規な価値創造である以上、イノベーションが実現される以前ではその有益性はおろか、ビジネスモデルや事業戦略や社会実装する方法論は編み出されていなくて、その普及事業化にどんなスキルの人材が必要か想像だにできず人材強化を事前に行うのは容易でないし、いっぽうそもそもイノベーションを起こすための人材像もスキルもまだ解明されておらず、効果が科学的に確かめられた育成方法なんていまだ世の中に存在しないから、この三段論法にはただならぬムリがあることは否めないのです。

これらはながらく多くの研究が行われながらいまだ答えが見いだせていない問題で、ある意味それと知りつつこういう小奇麗なまとめをするお上もかなり罪深いのですが、そこを目指す以外に日本企業や日本経済が生き残る道はないということかもしれません。

ここでは、イノベーションはなぜ起きないのか/どうすれば起こせるのか、そのためにどう人材強化すればよいのか、明快な答えはだせそうにないものの、少しずつ解明されているイノベーションメカニズムの知見を探索していきたいと思います。

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